がるの健忘録

エンジニアでゲーマーで講師で占い師なおいちゃんのブログです。

プログラムを「書ける人」と「書けない人」の違い

http://www.huffingtonpost.jp/rootport/post_5947_b_4139629.html
経由
http://rootport.hateblo.jp/entry/20130505/1367763730


まぁ内容は同じだと思う(diffとってないけど)。
「文章を「書ける人」と「書けない人」のちがい」という、blog。
いくつか抜き出してみましょう。

文章を書くという仕事は、ゼロを1にする作業だと思われがちだ。

しかし実際には、文章を書くというのは100を1にする作業だ。文章を書けるかどうかは、このことに気づけるかどうかだと思う。

狼と香辛料』を書くにあたり、著者の支倉凍砂はかなりの量の文献を読み込んでいたらしい。ライトノベルは、青少年向けの「軽い小説」と見なされることが多い。しかし、そのライトノベルでさえ、メガヒットの裏側にはきちんとした情報収集があった。

たった一本の小説を書くために、著者は目眩がするほど膨大なインプットを行っていた。

これらすべてに精通していなければ、この作品は書けなかった。一朝一夕で身につくものではない。知識は、息するように吸収し、血液のように絶えず自分の中を循環させておかなければいけない。

人を引きつける文章、誰かの心に響く文章。そういう文章を書くためには、たくさんのひきだしから多彩な知識を取り出さなければいけない。そして、そういう知識は短期間では身につかないのだ。

すぐには役立たない知識を、毎日1ページずつ蓄積していったとする。1年で単行本一冊分になり、10年で辞書一冊分になる。

知識を身につけるとは、本来、そういうことだ。数十年後に百科事典一式に匹敵する情報を身につけるために、毎日少しずつ知識を蓄積していかなければいけないのだ。そうやって体に刻み込んだ知識は、一週間やそこらでキャッチアップできるような種類のものではなくなる。

文章屋が仕事をしてるのは、キーボードを叩いてる時だけではない。
まず情報を集める段階がある。つぎに、集めた情報を組み合わせたり取捨選択したり……知識と格闘する段階がある。それから、情報をどのような順序で見せるか、文章の配列を決める段階があって、さらに文章の枝葉まである程度固めて……そこでようやく、キーボードに向かうことができる。文章屋がペンを握ったときには、もう作業の8割がたは終わっている。実際にキーボードを叩くのは、「文章を書く」という工程全体の5%ほどだ。
では、残りの15%は?:推敲と校正だ。

文章屋の仕事は、たぶん、そうでない人からすれば魔法のように見えるのだろう。キーボードをよどみなく叩いて、真っ白なページのうえに言葉を紡いでいく。「ゼロを1にする作業」だと思われて当然だ。しかし実際には、文章を書くのは「100を1にする作業」なのだ。

だからと言って、キーボードを叩いてないときの文章屋が「なにもしてないように見えるけどインプットしてるの!がんばってるの!」と訴えるのは、ちょっと違うような気がする。寿司屋は寿司を握ってる瞬間しか仕事してないように見えるけど、「仕入れや鮮度管理もがんばってるの!」とは訴えない。
寿司屋は、寿司の味でしか評価されない。
文章屋は、書きあげた文章でしか評価されない。

さても興味深いのは。
そのまま、脳内でも物理的にでもいいが「文章」を「プログラム」に変換してみよう。
ほぼ全くもって「そのまま」当てはまる。

いわゆる「ビジネスパーソン」と呼ばれる人々は、知識を軽視しがちだ。問題を効率的に解決する方法や、アイディアの出し方……マニュアル化された「頭の使い方」をマスターすることに夢中で、知識の蓄積を後回しにしがちなようである。頭の使い方さえ身につけていれば、知識は必要になったときにキャッチアップすればいい、キャッチアップできると信じて疑わない。ビジネスの世界で求められる知識とは、つまり、その程度の浅いもので充分なのかもしれない。

なんてのも、辛辣にして非常に的を射た、えぐるような一言である。
「知識は必要になったときにキャッチアップすればいい」については、常々言っている通り「知識がないと、そも、必要である事が理解できない」ので、NGである。


で、ここ。

他人の書いたコードを研究しないプログラマはいない。他人の書いた文章を学ばずして、文章を書くのは不可能だ。

置換する必要すら無く…んでもって、問いかけになる。


「他人の書いたコードを研究しないプログラマはいない」んだそうな。


どう?


やってる?
読んでる?
どれくらい?