がるの健忘録

エンジニアでゲーマーで講師で占い師なおいちゃんのブログです。

さしのべしぐさとおせっかいしぐさ

そういえば「さしのべる」って単語もずいぶんと耳にしておりませんが。


相手が本当に困っている時に。相手の自主性やら意欲やら主張やらをきちんとくみ取りつつ、最低限手を貸すのが「さしのべしぐさ」。
そこでつい「手伝って"あげてる"俺偉い」とか勘違いして相手の自主性やらを無視してしまうと、あっという間に「おせっかいしぐさ」。


困った時はお互い様。
でも相手が頑張ろうとしているのなら、後ろからそっと見てやるのもまた、ひとつのさしのべしぐさ。
相手とのスタンスの取り方を、今一度熟考してみませんか?

おかげさま

元々は「お蔭様」と書きました。お陰とは「目に見えない様々なはたらき」です。
…少々このシリーズにしては長文になってしまいますが。以前から非常に気になっていたネタを取り上げながら。


給食で「いただきます」「ごちそうさま」と言うのはおかしい、という話を、拝見した事があります。


http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1215931262

給食を食べるとき、「頂きます」と言わすのって学校の横暴だと思いませんか?
ウチは給食費を払ってるお客様なんですよ!
何でそんな事言う必要があるのかしら?
子供には言わないように言ってあります。


http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1413456229

給食時の「いただきます」「ごちそうさまでした」強制に断固反対です。
給食の際に「いただきます」「どちそうさまでした」を強制させる意味として作ってくれた人への感謝といいますが給食調理員には賃金が支払われております(税金から)。これに対して感謝させるというのは資本主義社会の理念に反し誤った教育といえます。
栄養士は体裁上の献立のみを作っております、旧体制そのもので社会の癌といえます。
保護者が給食費として食材費を支払っているので生産者に感謝の必要もありません、自動・保護者側が客なのです。
動植物の命に感謝といいますが食料品は物であります。先物買いをしている投資家にとっては不作になれば莫大な地益を獲得できるのです。日本においてコメの先物上場が実現できないのも「食料は大切なもの」という愚かな考えがあるからです。
日本の将来を弱体化させる子供にさせる原因である「いただきます」「ごちそうさまでした」強制を廃止させるのはいかがでしょうか。


http://kotonoha.cc/no/64684

給食費を払っているので「いただきます」「ごちそうさま」は言わなくていい。と言う教師


http://blog.livedoor.jp/kingcurtis/archives/50164080.html

手紙は東京都内の男性から寄せられ、永六輔さん(72)が「びっくりする手紙です」と、次のように紹介した。
 《ある小学校で母親が申し入れをしました。「給食の時間に、うちの子には『いただきます』と言わせないでほしい。給食費をちゃんと払っているんだから、言わなくていいではないか」と》


…正直、なにやら薄ら寒い思いさえしました。
いただきますは、元々は「頂戴します」。これは「何か」から食べ物を「もらった」というニュアンスになります。
では。その「何か」とはなんでしょうか?
食べ物は、全て「生き物」です(植物も生き物です)。彼らの命を頂いている、というのも一つあります。
でも、同じくらいに。その生き物が育つための、環境であり、水であり、太陽であり、そういった様々の「お陰様」で、食べ物は成り立っているのではないでしょうか?
ごちそうさまもまた、そういった食材を集め、調理してくれた人に対する心からの感謝です。


「お金を払った」というのであれば。
お金だけがある、空気も水も太陽も自然の恵みも何もない状況で、食料なりなんなり作り出してみてください。
「お金を払えば」いいんですよね? 出来るんですよね?


先祖の先祖のまた先祖。彼らの1人が欠ければ、あなたはいない訳です。
太陽が、風が、水が大地が自然が様々なものがなければ、人間は生きていかれない訳です。
目に見える手元にある即物的な何かだけではなくて。
その裏の裏まで見た上で、その様々に「感謝をする」気持ちが。自分が気付いていないところでどなたかがしてくださった様々に感謝する気持ちが。
そんな様々をまとめたのが「おかげさま」という言葉なのではないでしょうか?


他人に感謝する心は、実は自分をとても豊かにしてくれます。
他人に感謝できない生活は、驚くほど自分を貧しくしてしまいますよ?

詫びる心と半歩ひく気持ち

「すみません」は「澄みません」。気持ちが濁っていた、澄んでいなかった事を詫びる言葉。
なるほどそう聞くと、わびる時の心の持ち方が見えてくるような気がします。


一方で。うかつあやまり、という言葉もありました。
例えば相手が足を踏んだ時に。
相手は当然ながら「あい澄みませんでした」とこころから詫びるのですが。
そこで「痛いじゃないか」「何をするんだ」「ふざけるな」と、居丈高になってはいけない。
相手が心から詫びているのだからこそ、その心をくみ取って半歩引いて、一言「いえ、こちらも迂闊でした」「失礼、私もぼーっとしてまして」と、一言。


自分が一歩引くのは、多分誰しもが業腹です。
でも、相手が詫びてきたのですから、自分も半歩だけ、引いてみませんか?
お互いに半歩づつひけば、そこには一歩分の余裕が持てるのですから。


「自分が」「俺が」もよいですが。
相手の事を、少しだけ、慮ってみませんか?

呑気しぐさ

「機が熟す」なんて単語があります。美酒は仕込みが肝心です。物語には緩急があるからこそひきこまれ、果報は寝て待つのが流儀です。


相手が何か粗相不始末をやった時に、ついつい頭ごなしに怒鳴りつけてしまう…というのは、よくある事です。
でもそこでぐっと「呑み込んで」、まずは相手の話を聞き、状況を知り、必要なら叱り、必要なら赦す。
そんな「気を呑む」しぐさが、呑気しぐさです。


気をせかせて無理をおすのではなくて。
時には押して、時には引いて。
頑張る張り切る一方で、呑気にのんびりゆったり構える。
そうすれば、無意味なトラブルもずいぶん減ると思うのですが如何でしょうか?

尊異論

異なる意見少数意見を、間違っても見下さない。それを尊重しなさい、という江戸しぐさです。「共生のしぐさ」と書いてあるところもありますね。


そも。「ずっと自分に同調してくれる同意できる同じものだけに囲まれる」環境で、何をどこがどう成長するのでしょうできるのでしょう?
異なるものに触れるからこそ、感性が磨かれ、アンテナが増え、より多岐にわたる思考が持て、学ぶ事ができ、成長が出来るのではないでしょうか?


また、もう少し単純に「相手と自分が異なる事を認める」と書いてあるところもあります。
自分と他人が「全く同じである」なんてありえないので。「相手と自分が一緒である」とむりくり括って齟齬を出すのではなくて、相手と自分が「違う事」をちゃんと認める。
これもまた、とても大切な事だと思います。


自分とは違う様々を。きちんと冷静に見聞きすることが出来てますか?

草主人従

元々は「森羅万象自然が主人で人間はそれに従う、という考え方です。
私はここに、いくつかの違う観点をあわせて連想しています。


まず。自然に逆らっても意味がない、自然に敬意を払う、という意味合いです。
ここから、私は「もっと自然とか季節とかに敏感になろう」という思想を感じています。
四季折々を楽しむのはとても大切だと思っています。


そうしてもう一つは「人間が全てを支配しているわけではない」「自分たちは生きてるのではなくて生かされている」という考え方です。
そこから「お陰様」なんていう言葉に繋がるのですが。
受けているはずの恩恵を「見ないふり気付かないふり」をして傍若無人に振る舞うのは、果たして如何なものなのでしょうか?


人は、自分は、常に主ではなく従の関係性にあること。
そんな謙虚な気持ちを思い起こさせてくれる江戸しぐさだと、私は思っています。

結界わきまえ

一言で片付けると「身の程、身の丈をわきまえる」ということ。
んで。わきまえるためには自分を十二分に知る必要もありますし、限界を知るためには限界を超えてみる必要もあるわけです。
また、…まぁ「ちゃんと専門分野を持っていれば当たり前」ではあるのですが、相手の専門分野に余計な差し出口をしない、他人の領分を侵さない、という節度もまた大切になるわけです*1


自分を知り、相手を知る。
大切…というよりはむしろ「なきゃ困る」ものだと思うのですが。どんなもんですかねぇ?

*1:もちろん、聴く側としては「尊異論」が必要になるわけなのですが